コンフォートゾーン--不安を感じず、話せる場所

2017年07月31日(月曜日)

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comfort zone


英語圏の場面緘黙症の本などを読んでいると、 "comfort zone" という言葉を時々目にします。

どういう意味の言葉でしょう。The Selective Mutism Resource Manual(『場面緘黙リソースマニュアル』)第2版には、次のような説明があります(Johnson and Wingtgens, 2016, p. 143)。

ほとんどの緘黙児にとって、家は comfort zone です。つまり、緘黙児が自分らしくいられ、のびのびと話すことができる唯一の場所です。

For most children, home is their comfort zone; the one place where they can be themselves and talk freely.

上の説明を借り、comfort という言葉を意識して改めて説明してみると、comfort zone とは、緘黙児者が不安を感じず、自分らしくいられ、のびのびと話ができる場所と言えるのではないかと思います。

私はこの言葉、なかなか面白いと思うのですが、何と訳せばよいのか分かりません。「快適ゾーン」「安全地帯」……どれもしっくりきません。最近出版されたイギリスの本の邦訳『場面緘黙支援の最前線』(新しいウィンドウで開く)』では、「安心できる場所」(90、92ページ)、「安心できる場面」(91ページ)、「安全と感じる場面」(92ページ)という訳が当てられています(Wintgens, 2014/2017. pp. 90-92)。なるほど、もっともです。前後の文脈からしても適訳です。言われてみると、そんな簡単なことかとも思えてきます。

ですが、今回の記事では、敢えて片仮名で「コンフォートゾーン」にしてみることにします。こうすると、「コンフォートゾーン」という一つの概念が存在するように思えて、面白そうです。実際のところ、comfort zone という言葉は英語圏で時々目にすることがあり、半ば一つの緘黙支援用語ではないかなどと思うこともあるほどなので、これも悪くないのではと思います。


「コンフォートゾーン」で話せなくなることも


学校などで話せない少年時代を送った私には、「コンフォートゾーン」という言葉が言わんとしていることは身を持って分かります(ただし、私は緘黙の診断は受けていません)。私の場合、代表的なコンフォートゾーンは家やその周辺でした。一方、学校はコンフォートゾーンの外でした。

ですが、よくよく思い返すと、コンフォートゾーンで話せなくなることや、逆に、コンフォートゾーンの外側で少し話せるようになることも稀にありました。

例えば、小学生の頃、家の前ではしゃいでいたところ、元クラスメイトとばったり会って、急に固まってしまったことがあります。この経験については、コミックエッセイ『私はかんもくガール』(新しいウィンドウで開く)にも、似た話があります(らせんゆむ, 2015, p.19)。近所で母らと一緒に喋りながら歩いていたところ、クラスメイトとばったり会って、それから外を歩くときは「外」と「家」の間のあいまい状態を使うようになったという話です。

↓ その『私はかんもくガール』の一場面。出版社ホームページに掲載されているチラシです。PDF。1.51MB。
◇ かんもくガールチラシ (新しいウィンドウで開く

※ PDFを閲覧するには Adobe Reader が必要です。こちら新しいウィンドウで開く)からダウンロードできます。

また、学校で高校受験のための三者面談をした時は、親が側にいたせいか、私は家にいるときの状態に少し近くなりました。学校なのに、家のように話すことが少しできるようになったのです。


「コンフォートピープル」「コンフォートアクティビティー」があってもよさそう


ゾーン(zone)は空間を表す言葉です。ですが、緘黙児者が話せる/話せない場面は、空間のみで限定されるわけではありません。北米では、緘黙児者が示す一般的な発話パターンを「場所」「人」「活動」の三要素に分ける考え方があります(例えば、Mcholm et al., 2004/2007)。緘黙児者がどの程度話せる/話せないかは、これら三要素の組み合わせで決まるものとも考えられます。「コンフォートゾーン」があるなら、「コンフォートピープル」「コンフォートアクティビティー」があってもよいのではないでしょうか。

また、コンフォートゾーンとそうでないゾーンにはっきり二分されるわけではなく、実はその中間のようなものがあるのではないかとも思います。

このように、不安を感じず話せるかどうかは、コンフォートゾーンだけが問題ではなく、「コンフォートピープル」や「コンファートアクティビティー」との組み合わせによるのではないかと思います。また、コンフォートゾーンとそうでないゾーンの境界は曖昧ではないかと思います。

とはいえ、多くの場合、コンフォートゾーンやコンフォートピープルなどはセットではないかと思います。家の中にクラスメイトが入ったり、学校に親が入ったりする場面は少ないのではないかと思います。


片仮名言葉


それにしても、今回の記事は片仮名がやたらと出てきてしまいました。「エビデンス」とか「ワイズスペンディング」とか、片仮名言葉は実はあまり好きではありません。特に「コンフォートピープル」という言い回しは、いまいちのような気がします。

「コンフォートゾーン」などの言葉は、今後はあまり使わないことにします(じゃあ、今回の記事は何だったんだ?)。





私たちは、重い緘黙ばかり見ている?

2017年03月22日(水曜日)

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緘黙団体会員の子どもの緘黙は、重い傾向がある?


130人の緘黙児を集めました。

アメリカの研究グループが行なった、ある場面緘黙症の研究の話です(Cohan et al., 2008)。130人とはよく集めたものですが、どうやってそんなに集めたのでしょう。それは、アメリカにある緘黙支援団体のニュースレターや、緘黙の研究治療センターの全国会議で、研究への参加募集の宣伝を行なったのです。

ただ、この方法には問題もはらんでいたようです。研究の限界の一つとして挙げられています。

第一に、緘黙の一般集団における有病率の低さとより多くのサンプルの必要性のために、参加者は緘黙支援組織のウェブサイトや緘黙治療センターが主催する全国会議から集められた。参加者としてこれらの子どもには、より重症のあるいは持続した緘黙症状があり、これにより、親が追加的な情報と支援を探し求めていたのかもしれない。

First, due to the low prevalence of SM in the general population and the need for a large sample, participants were recruited from an SM advocacy organization website and at national conferences hosted by an SM treatment center. It is possible that as a group these children exhibit a more severe or persistent form of SM, leading their parents to seek additional information and support.

私の訳が下手で分かりにくいのですが、つまり、緘黙支援団体に入会していたり、緘黙研究治療センターの全国会議に出席したりする親は、その子どもの緘黙が重かったり、長期化していたりする可能性があるということです。

子どもの緘黙が深刻だから、親がそれだけ熱心に活動しているのかもしれないという解釈です。

もしそうだとしたら、重症の緘黙や長期化した緘黙を中心に集めて、緘黙の研究を行なったことになってしまいます。これでは偏りが出てしまいます。


精神科医は、重症の緘黙児者を診る傾向がある?


似たような話は、他にもあります。精神科の話です(大村, 2006 p.250)。

精神科を訪れるケースはより重症で難治なタイプII、あるいはタイプIIIである割合が多いと考えられ、この食い違いが教育現場における選択緘黙のイメージと精神科の臨床におけるイメージとの違いを生んでいるように思われる。すなわち教育関係者は思春期を過ぎれば選択緘黙は自然軽快するものと思いがちであるのに対して、精神科医はアプローチが困難で治りにくい障害と捉えてどちらかといえば敬遠する向きがあるが、見ている対象が異なっているのであろう。

なるほど、精神科を訪れるともなると、重症の緘黙が多いのかもしれません。上の文章は、こうしたことが緘黙に対するイメージに影響を与える可能性についてまで触れられています。


疑問:ネットで見る当事者は、緘黙が長期化した人が多い?


さて、以下は私の素朴な疑問です。

幼稚園児や小学生の緘黙当事者が、Twitter で

「場面緘黙症を知ってほしいです」

と訴えているのを、私たちは見ることはありません。ブログや、最近では YouTube などでもそうです。小学生以下の子どもは、そういうのはあまりしないのでしょう。SNSの中には年齢制限を設けていて、そうした年齢の子は利用できないサービスもあります。

私たちがネット上で目にする当事者は、若くても中学生です。多くは幼児期に緘黙を発症し、それが中学以降になっても続いている人でしょう。思春期以降に緘黙を発症するのは珍しいです。

ここで、素朴な疑問を持つのです。緘黙児の中には、小学生の間に緘黙を克服してしまう子もいるかもしれません。もしかしたら、その方が多い可能性だってあります。そうだとしたら、私たちはネット上で、緘黙が特に長く続いた当事者ばかり目にしていることになります。


疑問:ネットで見る経験者は、緘黙が尾を引いている人が多い?


緘黙を既に克服した経験者についても、同じような疑問を持つことがあります。

ネット上で緘黙について発言している経験者は、過去に緘黙経験が長く続いたり、いわゆる後遺症を持っていたりと、緘黙が後の人生に尾を引いている人が多いのではないかという疑問です。

逆に、例えば小学校中学年までに緘黙を克服してしまい、現在は後遺症も何もなく社会人として元気に過ごしている人がいたとしたら、そうした人はネット上で緘黙についてそんなに積極的に発言したりはしないように思うのです。


根拠は無い


このようなことを考えると、緘黙支援団体の会員や精神科医が見ている緘黙児者や、ネット上でつながる当事者や経験者は、緘黙が重い傾向があるのではないかと思えてきます。

そうなると、案外、小学校教師あたりが緘黙当事者を偏り無く見ているのではないかとも思えてきます。ですが、小学校教師が見ているのは小学生の当事者のみで、中学生や高校生、大人の当事者を見ることはありません。中学、高校の教師についても同様です。

どちらにしろ、教師は、上記の人たちとは見ている対象が違います。このことにより、緘黙に対するイメージの違いが生まれているかもしれません。

とはいえ、これまで書いてきたことは、「かもしれない」「可能性がある」ことばかりです。根拠があるわけではありません。



緘黙児者は「サイレント・ユーザー」か

2017年03月15日(水曜日)

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「車椅子使用者」という表現と似ている?


「サイレント・ユーザー」(silent users)

Norman Hadley 氏というカナダの大学教授が、著書の中で、場面緘黙症がある人をこのように呼ぶ場面があったそうです(Hadley, 1994, p.xxi)。

この表現に対し、Tony Cline 氏というイギリスの大学教授が興味深いコメントを残しています。これは、身体の動作が制限されている人を「車椅子使用者」(wheelchair users)と呼ぶのに似ているというのです(Cline, 2015, pp.36-37)。

Tony Cline 氏によると、20世紀後半、障害がある人は自らの生活をコントロールする(または、コントロールするべき)主体であり、また、彼ら彼女らが直面する障害に対処することにおいて活動的な主体である(または、活動的な主体であるべき)という関心が高まったそうです。「車椅子使用者」「サイレント・ユーザー」はその影響を受けた表現だろうと述べています。

ただ、特に海外では、かつて緘黙児は自らの意思で話さないという誤った認識が強調された歴史があるようです。Tony Cline 氏は、「サイレント・ユーザー」という表現は、ある意味ではその頃に逆戻りするものであるとしています。しかし、この表現には緘黙への見方の重大な変化があるとも指摘しています。つまり、話さないことを非難する要素が取り除かれているというのです。


自立生活運動のことか


Tony Cline 氏の話にある、障害がある人は自らの生活をコントロールする……というくだりは、自立生活運動のことだろうかとも思うのですが、ちょっと自信がありません。「私たちのことを、私たち抜きで決めないで」のスローガンでも知られる運動です。


「うなずき/首降り使用者」「筆談使用者」「AACユーザー」とかならどうか


緘黙がある人は、何も沈黙を意図して使っているわけではありません。ですので、障害ある人は自らの生活をコントロールする主体であるとか、そういう意味合いで緘黙の人のことを「サイレント・ユーザー」と呼ぶのであれば、それはどうだろうと今のところ私は疑問に思っています。

ただ、例えば「うなずき/首降り使用者」「筆談使用者」なら、分からないまでもないような気がします。そういう非言語的な手段でコミュニケーションをとる緘黙児・者はいます。

ただ、これはあまり語呂がよくありません。特に、「うなずき/首降り使用者」は最悪です。そこで、少し専門的な言葉を使いますが、「AACユーザー」とか、「ノンテク AACユーザー」と言い換えてみてもよいかもしれないと思います。

AAC は Augmentative and Alternative Communication の略で、「拡大代替コミュニケーション」「補助代替コミュニケーション」と訳されます。AAC の国際団体のウェブサイトによると、「個人が日常のコミュニケーション上の困難を解決するために使う、一連の道具や手段」のことだそうです(Burkhart, n.d.)。中でも、身振り、手振り、表情などを使ったコミュニケーションは「ノンテク技法」と呼ばれます。

そもそも、車椅子使用者は、身体の動作の不自由を補う手段として車椅子を使用しています。「車椅子使用者」と似た表現にするのなら、緘黙児・者が話せないことを補う手段に注目して「AAC ユーザー」などとした方がよいのではないかと思います。


やっぱり駄目だろうなあ


ただ、緘黙がある人には、うなずきや首降りなどの非言語コミュニケーションすらとれない人もいます。また、非言語コミュニケーションを図るのは緘黙児・者だけではありません。

そういうわけで、「AAC ユーザー」などの表現も、どうだろうと我ながら疑問に思っています。

とはいえ、「サイレント・ユーザー」は、考えさせられる表現だと思い、紹介してみることにしました。