場面緘黙症Journalブログ

場面緘黙(かんもく)症。選択性緘黙。学校など特定の場面で声が出ません。

私の親が、緘黙を知っていた!

2016年09月24日(土)


私の人生観がひっくり返りそうになるぐらいの出来事がありました。

1年ほど前のことでしょうか。ある日、私の母親がテレビドラマを見ている場面に居合わせました。そのドラマには黙った少年が登場したのですが、そのシーンを見た母が、こう口走ったのです。

「カンモクや!」

衝撃的でした。私の母が場面緘黙症を知っていたのかと、驚きました。黙った少年の登場シーンという状況からして、聞き間違いとも思えません。なお、母がドラマを見ながら何かを口走るのは、やや珍しいことです。

私はそのドラマが気になって、少し続きを見たのですが、別にその少年は緘黙児ではなさそうでした。ドラマのタイトルは覚えていません。

それにしても、一体なぜ母が緘黙を知っていたのかが気になりました。緘黙はそんなに多くの人に知られてはいないでしょう。母に直接聞くこともしづらいです。そこで、考えられる理由をいくつか挙げてみます。

※ 我が家は母子家庭です。

可能性1:私が学校で話せなかったことから、緘黙を知った


当時の担任教師から、緘黙について伝えられた?


やはり母は、私が子どもの頃に学校で話せなかったことから、緘黙を知ったのかもしれません。当時から既に、母は私を緘黙児と見ていたのかもしれません。

だとすれば、これは大変な驚きです。母は私の緘黙(?)を知らなかったものと、私はこの歳までずっと思っていたからです。私の過去を連載した「緘黙ストーリー」でも、そういう書き方をしています。実際、「緘黙」という言葉を、それまで母の口から聞いた覚えはありません。

この線だと、母は担任教師から緘黙を知らされたのかなと思います。私は当時緘黙を知らず、このことを母には十分に話していませんでした。当然、診断も受けていません。一方、ある時期の担任は学校で何も話さない私を問題視し、かなり特別扱いをしてくださいました。その頃は、母は学校との連絡をまだある程度とっていたので、その中で緘黙を知ったのかもしれません。

言われてみればありました。当時の担任に「富条は家では話すんだよな」と言われ、私は「どうして家での僕を知っているの」と驚いたことが。


担任も母も、私に「緘黙」という言葉を伝えないことにしていた?


ただ、この担任も、少なくとも私の前で「緘黙」という言葉を口にしたことはありません。何らかの理由で、担任と母は「緘黙」という言葉を私の前で出さないという取り決めをしていたものと思われます。「緘黙」を知っていながら、私には意図してそのことを話さなかったことになります。それが、もう時効という意識もあってか、ドラマを見た母がつい「緘黙や!」と口走ってしまったのかもしれません。

もしそういう取り決めがあったとしたら、それは私の人生にとって非常に重いです。そのために、私は長年「緘黙」を知ることなく生きることになったからです。自分がなぜ話せないのかや、どうすれば話せるようになるのかが分からず、自分のような人間は世界でただ一人だけではないかとさえ考えていました。もっとも、この取り決めが間違いだったのか、そうでなかったのかは難しいところです。

なお、私が緘黙を知ったのは20代に入ってからです。きっかけは母から教えてもらったことではなく、自分でインターネットであれこれ調べたことでした。私の緘黙(?)は長期化したうえ、長年緘黙を知らなかったため「長年の謎が解けた」となりました。


「緘黙」という言葉を知っていたとしても、母が十分に理解していたとは思えない


ただ、母の言動を振り返って考えてみると、仮に母が「緘黙」という言葉を知っていたとしても、私が学校でどういう状態にあったかを十分に把握していたとは思えません。そこまで深刻とは認識していなかったはずです。特別何かをしてもらったこともありません。

案外、私のことを「緘黙児に似ている」ぐらいに見ていただけの可能性もあります。


可能性2:私が話せなかったこととは無関係に、メディアや本などで緘黙を知った


稀にではありますが、緘黙はメディアや本などで取り上げられることがあります。私が学校で話せなかったこととは無関係に、そうしたものを通じて母は緘黙を知ったのかもしれません。だとしたら、母が緘黙を知っていたのは、緘黙の認知度が上がっていることの一つの現われともとれます。

ただ、私の母は『仰天ニュース』や『ハートネットTV』は見ていないようです。本や雑誌の類もそう読みません。見ていたとしても、さして興味は示さず、下手すると忘れてしまうでしょう。富条家が購読する新聞で、緘黙が扱われたこともありません。この線は考えにくいです。

なお、母は教師や心理職など、緘黙に関わる職業に就いたことはありません。職業柄緘黙を知ることもないでしょう。


可能性3:私が場面緘黙症Journal をやっていることがばれた


だったら最悪です……。(>_<)

緘黙の克服とは何か-個人的考え

2016年08月31日(水)


私の場合、「場面緘黙症を克服したシンガーソングライター」と呼ばれたこともあるんですが、自分では「克服した」なんて思えないですよ。確かに、今は人前でも話せるようになっているから、一見、治ったように見えるかもしれませんが、今でも人とコミュニケーションをとるのが苦痛な時もあるし、電話だっていつも家族に出てもらっているぐらいです。家族以外の前では“おとなしい自分”しか出せない、本当の自分が出せないんですよ。

シンガーソングライターの若倉純さんのお話です(クラスにいた“喋らないコ”, 2015年12月30日)。

これを読んで私は、若倉純さんのことを「場面緘黙症を克服したシンガーソングライター」と書くのはやめることにしました。聴衆を前に歌うお仕事をされているほどの方なので、克服と書いて問題ないだろうと思い込んでいたのでした。

緘黙の克服とは何か


緘黙の克服とは何なのでしょう。これは難しそうな問いです。人によって「克服」という言葉が意味するところも違うのではないかと思います。また、そもそも緘黙は克服するものではないと考える方もいらっしゃるかもしれません。

何をもって緘黙の克服とするか、はっきり書いたものを見た覚えもあまりありません。場面緘黙症Journal も11周年が近づいているのに、緘黙克服の定義をはっきり書いたことはいまだになかったと思います。

そこで今回、現在の私が考える緘黙克服の定義をはっきりさせておこうと思います。ただし、あくまで私自身の緘黙(?)についての個人的考えです。また、緘黙の診断についての話でもありません。診断とは無関係に、個人的に緘黙の克服をどう考えるかについてお話します。

※ そもそも、私は緘黙の診断は受けていません。だから「緘黙(?)」と書きました。また、当時は現在の診断基準はありませんでした。

狭い意味での緘黙克服


私は、狭い意味での緘黙克服と、広い意味での緘黙克服を分けて考えます。まず、狭い意味での克服は、今まで話せなかった学校場面などで話ができるようになることです。具体的には、Steven Kurtz 博士の「言語化の階層」でいうところの「社会的に期待される言語化」ができるようになることです。

※ 言語化の階層(Hierarchy of verbalizations) (Kurtz, 2015)

○ 音や声(Sounds and Voices)
○ 反応的な言語化(Responsive)
○ 自発的な言語化(Spontaneous)
○ 社会的に期待される言語化(Socially Expected)

ただ、Steven Kurtz 博士は「社会的に期待される言語化」の例として、Hellow, Good-bye, Excuse me, Please, Thank you といった挨拶を挙げていますが、私が思う克服は、もっとハードルが上です。頭の中で文章を組み立てて、それを、たとえ小さな声でも相手に聞こえるようにほぼ継続して話せるぐらいになれば、狭い意味では克服といっていいかなと思います。

「話せるようになることが克服ではない」と考える方もいらっしゃるだろうと思います。例えば、緘黙の背景には強い不安があり、話せないことは氷山の一角に過ぎないという見方です。ですが、私は必ずしもそうは考えません。これぐらい話ができるまでになれば、身体が思うように動かせないとか、表情が出せないといった不安に基づく発話以外の問題も、かなり解決しているだろうと思います。

場面緘黙児の心理と指導』では、緘黙の程度が軽い子どもは「言語表出」の困難に限られ、 程度が重くなるにつれて、「感情・非言語表出」の困難から「動作・態度」の困難へという形で症状が広がっていたことが示されています(河井ら, 1994)。

図 社会的場面におけるコミュニケーションが成り立つための階層構造(河井ら, 1994)


「克服」のハードルをもう少し高くして、「あらゆる場面で、家と全く同じように振舞うことができるようになること」としてみたい気もないではありません。ですが、よくある「人見知り」の人でも人前では十分に自分を出せないだろうと思うので、そこまでは求めません。

緘黙による不自由が、周囲の配慮というかたちで改善されることもあります。それでも、話せないままでは、緘黙は克服できていないものと私は考えます。それを克服というには無理があるでしょう。

なお、私が話せなかった頃のことを書いた「緘黙ストーリー」では、だいたいこの狭い意味の克服をもって「緘黙が治った」としました。


広い意味での緘黙克服


広い意味での緘黙の克服は、狭い意味で克服はしたけれども、外では家と同じように自分を出せないなど、いわゆる緘黙の後遺症や関連する問題が解決されることです。

例えば、話せるようになったけれども、今でも人とのコミュニケーションに苦手意識が強いとか、他の精神疾患が続発したとかいうのは、広い意味で克服できていないものと考えて、狭い意味での克服とは私は分けて考えます。緘黙を背景とする不登校や引きこもりからの脱却は、最広義での克服に入るのかなと思います。

私は、緘黙は学校などで話せない状態をいうものと考えています。なのに、人前で話せるようになったけれどもまだコミュニケーションが苦手だから緘黙は克服できていないというのは一見分かりにくい話です。ですから、人前で話せるようになったら狭い意味では克服したとして、いったん線を引いておこうと思います。

緘黙の克服というと、私はだいたい狭い意味での克服を思い浮かべます。それで以前、私は若倉純さんを「場面緘黙症を克服した……」と書いたのでしょう。ところが、若倉純さんは克服をもっと広い意味で考えていらっしゃるようです。それで、私は不適切な書き方をしてしまったのだろうと思います。緘黙の克服とは何かは、難しい問いだろうと思います。





私は感動を与える存在だったのか?

2016年08月24日(水)


※ 画像は記事とは関係ありません。

感動・頑張る障害者像


今年の夏も24時間テレビ「愛は地球を救う」(日本テレビ系)があります。ところが、ここでNHKが、24時間テレビの裏番組にこんな特集をぶつけてきました。

「検証!『障害者×感動』の方程式」

「なぜ世の中には、感動・頑張る障害者像があふれるのか?」その謎を徹底検証!

笑いは地球を救う

など、明らかに24時間テレビを意識した内容です。

これをテーマに掲げた番組は、NHK Eテレの障害者情報バラエティー『バリバラ』です。24時間テレビが感動のフィナーレに差し掛かる時間帯に生放送されます。

↓ 公式ホームページへのリンクです。
◇ NHK バリバラ | 放送予定 (新しいウィンドウで開く

障害ある方の頑張る姿が強調され、感動話にされることが多いことには、私も多少違和感を持っていました。障害ある方は、なにも健常者を感動させるために生きているわけではないでしょう。ですので『バリバラ』の企画は興味深い問題提起だと思います。

そういえば、似た経験をした


そういえば、私も学校で緘黙していた頃(診断は受けていません)、似た経験をしました。同級生らから「富条君はあんなにひどい引っ込み思案なのに頑張っていて、心動かされる」というような視線でしばしば見られたのです。実際は、大したことはしてなかったのですが……。

こうした経験を土台に、自作ゲーム「緘黙RPG」では、勇気を出して頑張る緘黙の主人公の姿に、緘黙に無理解だった同級生が心を動かされて理解者に変わるというイベントを、制作段階でエンディングに盛り込みました。ですが、没にしています。

その理由は、障害ある方を頑張る存在として強調し、感動の対象とする、よくあるストーリーを連想させるものだったからです。それに、特別頑張っている(ように見える)緘黙児がいるから、緘黙のことを理解するという展開もよくないと考えました。ならば、特別頑張っていない(ように見える)緘黙の人は、理解されなくてもいいのかという話になってしまいます。

ただ、緘黙だった人で、私と同じように感動を与える存在として見られたという人の話はあまり聞いたことがありません。もしかしたら、私の経験は珍しいものだったのでしょうか?

関連記事


↓ 「TABI LABO」へのリンク。
◇ 「障害者=感動のストーリー」ではありません。 車いすの女性コメディアンのスピーチが刺さる (新しいウィンドウで開く

↓ 「ログミー」へのリンク。
◇ 障害者は「感動ポルノ」として健常者に消費される–難病を患うコメディアンが語った、”本当の障害”とは (新しいウィンドウで開く

↓ 「PAKUTASO」へのリンク。今回のアイキャッチ画像はここが出所です。フリー素材で観光発信という興味深い企画です。なお、障害とは全く関係ありません。
◇ 佐賀県伊万里市の観光発信・フリー素材 (新しいウィンドウで開く



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2015年12月3日再設置。

近々の予定

◇ ラジオ番組「若倉純 かんもくの歌声」第3回

日時:2月26日(日)23:00~23:15
ゲスト:manana さん
⇒ FM世田谷ホームページなどで聴けます

『校庭東風』上映情報

長野県、千葉県での上映決定。広島県ではイオンシネマでの上映決定。詳細は公式ページへ。 ※ 『校庭に東風吹いて』は、場面緘黙症の架空の少女が登場する映画です。

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■ ココロのひろば
「場面緘黙」とネットで検索してもほとんど何もヒットしなかった頃に開設されたサイトです。長く更新停止しています。

■ 「話すことがむずかしいあなたへ」
自分を変えたい、話せるようになりたい--こうした緘黙の当事者向けに、そのための具体的な方法を示したマンガです。はやしみこさん作。

■ 場面緘黙症 - メンタルヘルスブログ村
多数の緘黙のブログが登録されています。

■ 緘黙の話
昔緘黙児だった主婦の方が、高校で克服するまでの想い出を綴られています。

■ 場面緘黙について考える-備忘録-
英国在住の元緘黙児の母親によるブログです。緘黙だった息子さんのこと、英国の支援、日々の暮らしの中での想いなどが綴られています。

■ 緘黙ブログー不安の心理学、脳科学的知見からー
不安に関する心理学、脳科学的知見から緘黙症を考えています。

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