「緘黙依存症」

2008年10月28日(火曜日)

場面緘黙症の子どものために必要な支援をする、もっともなことです。学校生活が不自由な緘黙の子どものために手助けをする、良きことだと思います。

ただ、先日ご紹介した荒木冨士夫氏の論文には、緘黙経験者のこんな話が紹介されていました。

「周囲の人が代りになんでもやってくれるから…」

荒木氏は、これを「話をしない方が楽であり得であるといった心性」と表現しています。

■ 緘黙で得することもある

このように、病気か何かにかかって、周囲の人が優しくしてくれるようになったとか、義務や責任を避けることができたとか、そうした利益が得られるとき、その利益のことを「二次的疾病利得(しっぺいりとく)」、もしくは単に「疾病利得」と呼びます。

荒木氏は、「周囲の人が代りになんでもやってくれるから…」といったように、緘黙症が周囲の人を動かすようになると、緘黙症児の緊張が減少し、緘黙で安定すると述べています。これは緘黙症特有の疾病利得と言えるでしょう。荒木氏は、こうした現象を「緘黙依存症」と名づけています。

荒木氏は、このことから、緘黙症児には話「せ」ないという心性だけでなく、話「さ」ないという心性もあるのではないかと述べているのですが、私は半信半疑です。

■ 緘黙を治そうという意欲がそがれることも?

ただ、ここでお話したような疾病利得のうまみを緘黙症児が知ってしまうと、子どもによっては、緘黙を治そうという意欲がそがれてしまうこともあるのではないかと思います。緘黙っ子のままだとみんなが親切にしてくれますし、甘い目で見てもらえることもあります。ですが、緘黙が治ってしまうとそうはいかなくなるのです(現実には、無理解に悩まされている子の方が多いような気もするのですが)。

■ それでは、緘黙の子にどう接するか

こうなると、緘黙の子への接し方は難しくなってきそうです。緘黙を治そうという意欲をそがないために、緘黙症児には日ごろから邪険に接する…なんてことをするわけにはいきません。必要な支援は行う、話せなかったり動けなかったりして困ったことがあれば助ける、だけれども、緘黙に依存させない程度にする。このあたりのさじ加減が難しそうです。

もっとも、いつまでも人の好意に甘えてばかりはいられないと考えるしっかりした緘黙の子も、けっこう多いような気もします。


積極的依存型、消極的依存型、分裂気質型

2008年10月24日(金曜日)

このブログでは、時々場面緘黙症の論文を取り上げています。私は専門家ではないのですが、自分自身の勉強も兼ねて。

今回は、日本のもの2件です。やはり被引用回数が比較的多いので、取り上げます。

◇ 荒木冨士夫 (1979). 小児期に発症する緘黙症の分類. 児童精神医学とその近接領域,
20(2)
, 60-79.
◇ 荒木冨士夫 (1979). 小児期に発症する緘黙症の精神病理学的考察. 児童精神医学とその近接領域, 20(5), 290-304.

■ 概要

「小児期に発症する緘黙症の分類」は、緘黙症34例をもとに、緘黙症の分類を試みたものです。治療導入のしやすさ、甘えや攻撃性の出しやすさなどを指標に、第Ⅰ群:積極的依存型(active-dependent type)、第Ⅱ群:消極的依存型(passive-dependent type)、第Ⅲ群:分裂気質型(schizoid type)の3群に分類し、さらに第Ⅰ群と第Ⅱ群を各2群に細分類しています。

第Ⅰ群:最も治療の導入が容易であり、かつ緘黙症児は甘えと攻撃性をともに十分発揮できるグループ。
第Ⅱ群:甘えや攻撃性があっても少なく、消極的なグループ。
第Ⅲ群:甘えが全く見られず、治療的働きかけに対して攻撃性がしばしば破壊的攻撃という形で出現し、ときに精神的混乱を示し、信頼関係が成立しないグループ。

「小児期に発症する緘黙症の精神病理学的考察」は、上記論文で提唱した分類の各群の典型例を詳しく記述し、その精神病理学的考察を行うとともに、対応する治療方針について論じたものです。

■ 考察

論文について、私なりに気づいたこと考えたことをまとめます。






緘黙者間の治療観の相違

2008年10月18日(土曜日)

Wikipedia 「吃音症」の項目にある、「吃音者間の治療観の相違」の説明が面白かったです。

吃音者間の治療観の相違
↑ 新しいウィンドウは開きません。

※ リンク先のページを新しいウィンドウで開きたい方は、リンク部分を右クリックして、「新しいウィンドウで開く」を選択しましょう!(インターネットエクスプローラー6.0の場合。他のブラウザでもだいたい同じだと思います)

特に、「『吃音は努力すれば良くなる』とする主張と、『努力では良くならない』とする主張ある[ママ]」「吃音が治った人がいても、それはその人が治っただけで万人に有効な手段とはいえない」のくだりです。

吃音症と場面緘黙症はもちろん違いますし、ここの記述がそっくりそのまま場面緘黙症に当てはまるわけではないのですが、思い当たる節がありました。

場面緘黙症を自力で克服したとか、あるいは、それなりの年齢になったけれどもまだ治っていないとか、いわゆる後遺症で悩んでいるとか、そうした人たち同士がインターネットで交流すると、同じような対立が起こることがあります。

それにしても、この「吃音者間の治療観の相違」、一体どんな人が書いたのでしょうか?もしかすると、「俺は吃音を努力で治した。お前には努力が足りない!」などと説教されて、反発を感じた人かも?いや、それは分かりませんが。