緘黙の克服とは何か-個人的考え

2016年08月31日(水曜日)


私の場合、「場面緘黙症を克服したシンガーソングライター」と呼ばれたこともあるんですが、自分では「克服した」なんて思えないですよ。確かに、今は人前でも話せるようになっているから、一見、治ったように見えるかもしれませんが、今でも人とコミュニケーションをとるのが苦痛な時もあるし、電話だっていつも家族に出てもらっているぐらいです。家族以外の前では“おとなしい自分”しか出せない、本当の自分が出せないんですよ。

シンガーソングライターの若倉純さんのお話です(クラスにいた“喋らないコ”, 2015年12月30日)。

これを読んで私は、若倉純さんのことを「場面緘黙症を克服したシンガーソングライター」と書くのはやめることにしました。聴衆を前に歌うお仕事をされているほどの方なので、克服と書いて問題ないだろうと思い込んでいたのでした。

緘黙の克服とは何か


緘黙の克服とは何なのでしょう。これは難しそうな問いです。人によって「克服」という言葉が意味するところも違うのではないかと思います。また、そもそも緘黙は克服するものではないと考える方もいらっしゃるかもしれません。

何をもって緘黙の克服とするか、はっきり書いたものを見た覚えもあまりありません。場面緘黙症Journal も11周年が近づいているのに、緘黙克服の定義をはっきり書いたことはいまだになかったと思います。

そこで今回、現在の私が考える緘黙克服の定義をはっきりさせておこうと思います。ただし、あくまで私自身の緘黙(?)についての個人的考えです。また、緘黙の診断についての話でもありません。診断とは無関係に、個人的に緘黙の克服をどう考えるかについてお話します。

※ そもそも、私は緘黙の診断は受けていません。だから「緘黙(?)」と書きました。また、当時は現在の診断基準はありませんでした。

狭い意味での緘黙克服


私は、狭い意味での緘黙克服と、広い意味での緘黙克服を分けて考えます。まず、狭い意味での克服は、今まで話せなかった学校場面などで話ができるようになることです。具体的には、Steven Kurtz 博士の「言語化の階層」でいうところの「社会的に期待される言語化」ができるようになることです。

※ 言語化の階層(Hierarchy of verbalizations) (Kurtz, 2015)

○ 音や声(Sounds and Voices)
○ 反応的な言語化(Responsive)
○ 自発的な言語化(Spontaneous)
○ 社会的に期待される言語化(Socially Expected)

ただ、Steven Kurtz 博士は「社会的に期待される言語化」の例として、Hellow, Good-bye, Excuse me, Please, Thank you といった挨拶を挙げていますが、私が思う克服は、もっとハードルが上です。頭の中で文章を組み立てて、それを、たとえ小さな声でも相手に聞こえるようにほぼ継続して話せるぐらいになれば、狭い意味では克服といっていいかなと思います。

「話せるようになることが克服ではない」と考える方もいらっしゃるだろうと思います。例えば、緘黙の背景には強い不安があり、話せないことは氷山の一角に過ぎないという見方です。ですが、私は必ずしもそうは考えません。これぐらい話ができるまでになれば、身体が思うように動かせないとか、表情が出せないといった不安に基づく発話以外の問題も、かなり解決しているだろうと思います。

場面緘黙児の心理と指導』では、緘黙の程度が軽い子どもは「言語表出」の困難に限られ、 程度が重くなるにつれて、「感情・非言語表出」の困難から「動作・態度」の困難へという形で症状が広がっていたことが示されています(河井ら, 1994)。

図 社会的場面におけるコミュニケーションが成り立つための階層構造(河井ら, 1994)


「克服」のハードルをもう少し高くして、「あらゆる場面で、家と全く同じように振舞うことができるようになること」としてみたい気もないではありません。ですが、よくある「人見知り」の人でも人前では十分に自分を出せないだろうと思うので、そこまでは求めません。

緘黙による不自由が、周囲の配慮というかたちで改善されることもあります。それでも、話せないままでは、緘黙は克服できていないものと私は考えます。それを克服というには無理があるでしょう。

なお、私が話せなかった頃のことを書いた「緘黙ストーリー」では、だいたいこの狭い意味の克服をもって「緘黙が治った」としました。


広い意味での緘黙克服


広い意味での緘黙の克服は、狭い意味で克服はしたけれども、外では家と同じように自分を出せないなど、いわゆる緘黙の後遺症や関連する問題が解決されることです。

例えば、話せるようになったけれども、今でも人とのコミュニケーションに苦手意識が強いとか、他の精神疾患が続発したとかいうのは、広い意味で克服できていないものと考えて、狭い意味での克服とは私は分けて考えます。緘黙を背景とする不登校や引きこもりからの脱却は、最広義での克服に入るのかなと思います。

私は、緘黙は学校などで話せない状態をいうものと考えています。なのに、人前で話せるようになったけれどもまだコミュニケーションが苦手だから緘黙は克服できていないというのは一見分かりにくい話です。ですから、人前で話せるようになったら狭い意味では克服したとして、いったん線を引いておこうと思います。

緘黙の克服というと、私はだいたい狭い意味での克服を思い浮かべます。それで以前、私は若倉純さんを「場面緘黙症を克服した……」と書いたのでしょう。ところが、若倉純さんは克服をもっと広い意味で考えていらっしゃるようです。それで、私は不適切な書き方をしてしまったのだろうと思います。緘黙の克服とは何かは、難しい問いだろうと思います。





私は感動を与える存在だったのか?

2016年08月24日(水曜日)


※ 画像は記事とは関係ありません。

感動・頑張る障害者像


今年の夏も24時間テレビ「愛は地球を救う」(日本テレビ系)があります。ところが、ここでNHKが、24時間テレビの裏番組にこんな特集をぶつけてきました。

「検証!『障害者×感動』の方程式」

「なぜ世の中には、感動・頑張る障害者像があふれるのか?」その謎を徹底検証!

笑いは地球を救う

など、明らかに24時間テレビを意識した内容です。

これをテーマに掲げた番組は、NHK Eテレの障害者情報バラエティー『バリバラ』です。24時間テレビが感動のフィナーレに差し掛かる時間帯に生放送されます。

↓ 公式ホームページへのリンクです。
◇ NHK バリバラ | 放送予定 (新しいウィンドウで開く

障害ある方の頑張る姿が強調され、感動話にされることが多いことには、私も多少違和感を持っていました。障害ある方は、なにも健常者を感動させるために生きているわけではないでしょう。ですので『バリバラ』の企画は興味深い問題提起だと思います。

そういえば、似た経験をした


そういえば、私も学校で緘黙していた頃(診断は受けていません)、似た経験をしました。同級生らから「富条君はあんなにひどい引っ込み思案なのに頑張っていて、心動かされる」というような視線でしばしば見られたのです。実際は、大したことはしてなかったのですが……。

こうした経験を土台に、自作ゲーム「緘黙RPG」では、勇気を出して頑張る緘黙の主人公の姿に、緘黙に無理解だった同級生が心を動かされて理解者に変わるというイベントを、制作段階でエンディングに盛り込みました。ですが、没にしています。

その理由は、障害ある方を頑張る存在として強調し、感動の対象とする、よくあるストーリーを連想させるものだったからです。それに、特別頑張っている(ように見える)緘黙児がいるから、緘黙のことを理解するという展開もよくないと考えました。ならば、特別頑張っていない(ように見える)緘黙の人は、理解されなくてもいいのかという話になってしまいます。

ただ、緘黙だった人で、私と同じように感動を与える存在として見られたという人の話はあまり聞いたことがありません。もしかしたら、私の経験は珍しいものだったのでしょうか?

関連記事


↓ 「TABI LABO」へのリンク。
◇ 「障害者=感動のストーリー」ではありません。 車いすの女性コメディアンのスピーチが刺さる (新しいウィンドウで開く

↓ 「ログミー」へのリンク。
◇ 障害者は「感動ポルノ」として健常者に消費される–難病を患うコメディアンが語った、”本当の障害”とは (新しいウィンドウで開く

↓ 「PAKUTASO」へのリンク。今回のアイキャッチ画像はここが出所です。フリー素材で観光発信という興味深い企画です。なお、障害とは全く関係ありません。
◇ 佐賀県伊万里市の観光発信・フリー素材 (新しいウィンドウで開く

分かりやすい説明がシェアされる時代

2016年08月19日(金曜日)


分かりやすい緘黙の説明


「この説明が分かりやすい」

場面緘黙症とは何かを説明したものは、インターネット上でたくさんあります。それも文章だけでなく、動画やコミック形式のものまで、様々です。

その中でも特にシェアされるのは、分かりやすいもののようです。シェアされる際、ほぼ決まって「この説明は分かりやすいですよ」と紹介されます。

「この説明は詳しいですよ」としてシェアされる例は、あまり見た覚えがありません。詳しい説明よりも、分かりやすい説明がおすすめされる時代のようです。場面緘黙症Journal は当初(10年前)、緘黙に「詳しい」ブログということで評価をいただいたので、最近の傾向には泣きたくなります。

分かりやすい説明が重宝される背景には、緘黙のことを多くの人に知ってもらいたいという当事者らの思いがあるのではないかと思います。緘黙を全く知らない人のために求められる説明は、なにより分かりやすい説明でしょう。

ですが、私などは(1)情報の出所がはっきりしているか、(2)信頼できる人物が書いたかを特に重視しています。つまり、その情報は確かなものかということです。この頃、緘黙についての「正しい理解」を広めようという動きが広まっていますが、それならば、分かりやすさばかりでなく、このあたりのところも、もう少し顧みられてもよいのではないかと思います。


「緘黙症って何?」を大幅に書き改めました


さて、私はこのほど、「緘黙基礎知識」の「緘黙症って何?」を大幅に書き改めました。

↓ パソコン、スマートフォン向けページです。
◇ 緘黙症って何? (新しいウィンドウで開く

これを書く際に心がけたのは、情報の出所をはっきりさせることでした。私は専門家ではないので、情報を少しでも確かなものと思っていただくには、情報の出所ぐらいは書いておかないといけないと思ったのでした。

それに、私は緘黙の専門的な文献を読んでいます。海外の論文も読んでいます。専門家ならともかく、ここまでした上で緘黙について説明する人は、案外少ないのではないかと思います。この自分の長所?を生かすためにも、専門的な文献を引用し、情報の出所をはっきり書くとよいだろうと思いました。

そうして「緘黙症って何?」を書き改めたら、あまり分かりやすくない説明ができあがってしまいました。国内外の専門的な文献を多数引用すると、それにつられて、説明も難しくなったのです。最近の傾向に反しています。分かりやすく書くのは難しいです……。