「一般化」--緘黙は自分だけじゃない

2017年06月19日(月曜日)

アイキャッチ画像。

「わたしだけじゃないんだ」


そうなんだ (ほっ) わたしだけじゃないんだ

どうして声が出ないの?-マンガでわかる場面緘黙-』の一場面です。場面緘黙症の架空の小学生「なっちゃん」が、「子どものころ話せなかった人はたくさんいるんだよ」等々と教えられ、ほっとします(はやしみこ, 2013, pp.16-17)。

私はこれを読み、正直なところ「なっちゃん、もっと驚かないの?」と感じました。子どもの頃に話せなかった人が自分だけではなかったという事実は、私が大人の頃に初めて知ったとき、天地がひっくり返るくらいの衝撃だったからです。

ですが、よくよく考えてみると、なっちゃんの反応はもっとものように思えてきました。なっちゃんはまだ小学生です。絵本『なっちゃんの声』では1年生という設定で、『どうして声が出ないの?』でもそれと同じか、あまり変わらない年齢設定とみられます。

つまり、なっちゃんは緘黙がそこまで長期化していません。その分、緘黙に対する特別な感情のようなものは、そこまで強くはなってないのかもしれません。一方私の場合、学校などで話せない期間が10年ほど続いたため、そのことに対する思い入れが強くなりすぎてしまったのでしょう。ですが、他にも理由があるのかもしれません。


一般化


緘黙は自分だけではないという気付きについては、以前お話したイスラエルの本の中に、興味深い指摘があります。十代の緘黙児者への心理教育に関する記述の一部です(Perednik, 2017, p.173)。

一般化:十代の緘黙児者は一般に、自分が他の人と違っていて、能力に欠けると感じている。--結局のところ、彼ら彼女らは、社会的コミュニケーションを図るための基本的ツールを特定の状況で身につけてこなかったのだ。自分たちは一人ではなく、多くの人が緘黙に苦しみ、そして効果的な治療法があることを理解することは、彼ら彼女ら(とその親)にとって大きな安心になる。

Normalization: Teenagers with SM usually feel different and inadequate - after all, they have not mastered the basic tool of social communication in certain settings. It comes as a huge relief to them (and to their parents) to understand that they are not alone, that many people suffer from SM, and that it has effective treatments.

この本の著者は、緘黙が自分だけでない(我が子だけでない)と知ることを「一般化」(normalization)と呼んでいます。「一般化」(normalization)は専門用語だろうかと思って調べたところ、以前もお話した「解決志向アプローチ」にこの用語があることを知りました。ここからとったのでしょうか。

私がなるほどと思ったのは、「十代の緘黙児者は、自分が他の人と違っていて……と感じている」という部分です。十代ともなると、自分と他人の違いに敏感になってしまうものだろうと思います。そうした年齢層の人にとっては、話せないのは自分だけでないことを知ることは大きいかもしれません。

なっちゃんがあの場面で驚かなかったのは、もしかしたらなっちゃんは年齢的に、他人との違いをあまり強く意識したことがなかったことも理由の一つかもしれません。もしなっちゃんの緘黙が思春期まで続き、そのときに初めて話せないのは自分だけでなかったと知ったら、なっちゃんの反応は変わったかもしれないと思います。

色々と書きましたが、話せないのは自分だけでないことを本人に知らせるべきかは、緘黙という言葉を知らせるべきかも含めて、よく考えなければならない問題だろうと思います。





放送大学の講義より

2017年06月12日(月曜日)

アイキャッチ画像。

一部、無料で一般公開されている


放送大学の過去の講義の中には、無料で一般公開されているものがあります。私のような学外の人間でも簡単に聴講できるようになっています。

私は最近聴講を始めたのですが、これがなかなか面白く感じました。場面緘黙症と関係がありそうな科目も見つけました。次の2科目です。

認知行動療法


緘黙に有効な治療法の一つと思われる、認知行動療法の科目です。これはテレビ授業科目で、第1回放送分のみ一般公開されています。2014年度に開講されたもので、主任講師は下山晴彦氏(東京大学大学院教授)と神村栄一氏(新潟大学教授)でした。

第1回放送分「認知行動療法とは何か—特徴と、その成り立ち」のみしか見ることができないのが惜しいのですが、認知行動療法のあらましをつかむことはある程度できるかもしれません。講義らしい堅苦しさも薄めなので、聴講しやすいです。ただし、大学の講義なのにいきなりドラマから始まるので、驚かれる方もいらっしゃるかもしれません。


精神医学特論


これはラジオ授業科目で、全15回が一般公開されています。2016年度に開講されたもので、主任講師は石丸昌彦氏(放送大学教授)と広瀬宏之氏(横須賀市療育相談センター所長)でした。

緘黙と関係があるのは、第9回「発達障害、小児期の心身症と精神疾患」です。この回では、「選択性緘黙」の説明がなされています。33分45秒から34分8秒までの23秒間ほどです。この通り、緘黙については概略をさらりと説明した程度です。この科目全体では、統合失調症のお話が多いです。


聴講方法


一般公開されている講義を見たり聴いたりするには、インターネットに接続できる環境があればよいです。具体的には、次の方法をとります。

○ パソコンの場合、放送大学「オープンコースウェア」ホームページにアクセス

○ 携帯端末の場合、放送大学のアプリをインストール

なお、認知行動療法の講義は見つけにくいです。1回分のみ公開の講義はたくさんあるので。私がインストールした Android 用アプリの場合、「一般の方はこちら」⇒「テレビ」⇒「授業科目一覧(1回分のみ公開)」⇒「066 認知行動療法('14)1528963p」の順で聴講できました。


緘黙が長期化すると、発達課題の達成に支障が出るか


ところで、精神医学特論の中で、石丸教授が「発達課題」のお話を繰り返しされていたのが私には印象に残りました。青年期に発症する統合失調症の患者さんには、その障害ゆえに「発達課題」を達成できない方もいらっしゃるというお話です。

「発達課題」とは何でしょうか。私は専門家ではないので詳しくはなく、説明は下記ページに委ねます。

↓ コトバンクへのリンク。
◇ 発達課題 | ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 (新しいウィンドウで開く

↓ goo ヘルスケアへのリンク。
◇ 心理学用語「E.H.エリクソンの発達課題」Developmental Task (新しいウィンドウで開く

↓ 「津市まん中こども館」ホームページへのリンク。
◇ 子どもの発達課題に応じた支援 (新しいウィンドウで開く

↓ 文部科学省ホームページへのリンク。ある懇談会の配布資料。
◇ 各発達段階における子どもの成育をめぐる課題等について (新しいウィンドウで開く

このあたり、緘黙についてはどうなのだろうと私は思いました。先日多くのアクセスを集めたアメブロ公式トップブロガー・タマ タマヨさんのお子さんのように、小学1年生のうちに緘黙が克服の方向に向かえばさほど心配はないかもしれません。ですが、長引けば、発達課題の達成に支障が出るようなことはないのでしょうか。特に、対人関係にかかわる課題の達成が難しいのではないかと思います。

ところが、「発達課題」という視点から緘黙について専門家が論じているのを、読んだ覚えがちょっとありません。よく探せばひょっとしたらあるのかもしれませんが、量は少ないだろうと思います。緘黙と発達課題がどうこうというのは、発達心理学等に詳しくない私の考えすぎなのでしょうか。

緘黙というと、ゆっくりでもいいから自分のペースで歩めばよいという論調が強いと感じます。もしかしたら、発達課題がどうこうとは言われないのは、このあたりが関係しているのかもしれないと思います。

蛇足までに私の経験をお話しすると、緘黙の影響で周りの人と同じように発達課題が達成できないと、自信や幸福感の低下につながりました。私の場合、自信や幸福感は、周りの人との比較で決まる部分も大きいです。なお、私は緘黙といっても、このことで医者にかかったことはなく、診断は受けていません。

2005年に、緘黙の講習会があった

2017年06月05日(月曜日)

アイキャッチ画像。

緘黙団体も Twitter もない時代に、緘黙の講習会


ちょっと驚きました。2005年8月6日に、場面緘黙症の講習会があったことを知ったのです。当時、跡見学園女子大学の助教授だった古池若葉氏が講師を担当したそうです。

↓ 古池氏が現在所属する、京都女子大学教員情報検索へのリンクです。現在、25番目に緘黙の講習会についての記載があります。
◇ 社会活動 (新しいウィンドウで開く

2005年8月といえば、私が場面緘黙症Journal の元となるブログを始める3ヶ月前です。当時のことは覚えています。

この頃は、緘黙関係の団体やグループが、日本にはまだ存在しませんでした。「かんもくネット」も「信州かんもく相談室」も「日本緘黙研究会」も、影形すらありませんでした。緘黙を主題とした専門的な本も、『場面緘黙児の心理と指導』(1994年)という、当時にして11年も前の本しか出ていない状況でした。

ネット上では、今のように育児サイト等の企業・団体が運営するウェブサイトで緘黙が取り上げられることはほぼありませんでした。Wikipedia にさえ、「場面緘黙症」の項目がなかったほどでした。

ネット上の緘黙情報といえば、経験者ら有志が個人ホームページで発信する情報が中心でした(「ココロのひろば」「浮遊」「ほほえむ」「場面緘黙症専用」ほか)。ここで「個人ホームページ」と書きましたが、当時は Twitter や Fabebook もありませんでした。ブログが広がり始めていた頃です。

そういう時代でしたから、緘黙に関する催し物などは、当時聞いたことがありませんでした。一部の当事者・経験者らが小規模なオフ会を開く程度でした。そんな時期に、緘黙の講習会が行なわれていたとは思いもよりませんでした。


よく考えると、そこまで意外でもないのでは


とはいえ、よくよく考えると、何もこれはそんなに意外極まりない話でもありません。緘黙に関する学術文献は、80年代、90年代、2000年代と時代を下るにつれ、増えていっていました。また、2004年には、書店でも普通に買える教師向けの雑誌『児童心理』で、緘黙を主題とする記事が2回も掲載されていました。これらの事実は、国立情報学研究所の学術情報ナビゲータ CiNii などで確認できます。

案外、この講習会のように、緘黙に関わる人にあまり気付かれることがなかった催し物などが、昔はあったのかもしれません。今でこそ、緘黙の催し物やメディア掲載といった情報を継続的に収集・公開する私のような者がいますが、昔はそんなことをする人はいませんでした。また、Twitter や Facebook といった、情報の拡散に優れたツールも昔はありませんでした。

緘黙関係団体や Twitter が存在しなかったような時代には、緘黙についてはまるで何もなかったという歴史認識?は行き過ぎかもしれません。