場面緘黙症、治さないといけないの?
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「場面緘黙症、どうして治さないといけないの?喋れなくたって別にいいじゃん!」
もしあなたのお子さんがこう言い出したら、どう答えます?
* * * * * * * * * *
■ 本当に治さないといけないの?
私は、自分の場面緘黙症は本当に治さなければならないのだろうかと悩んだことが何度もあります。
私の考えはこうでした。別に話せないことが悪いというわけではない。おしゃべりな人、無口な人、世の中いろんな人がいていい。こんな私だから好いてくれている人もたくさんいる。内気な性格を変えるのは、自分らしさの放棄につながる。
話せなくても、周囲の理解があるので学校生活に特に不満はない。将来は不安だが、もしかしたら無口で内向的なままでも、社会に適応し、自己実現をする術があるかもしれない。
もし無口な人が社会でうまくやっていけないのだとしたら、それはその人が悪いわけではなく、社会が悪いのだ。色んな個性の人がいてもいいのに、それを認めない社会は許せない。
[ご注意]
※ 場面緘黙症は、無口なことには違いありませんが、ただの無口とは違います。念のため。(02/01/2007)
* * * * * * * * * *
■ しかし…
しかし、大学進学で、就職先に営業職が多い経済学部に入ったこともあって、無口な自分は変えなければならないという考えに結局落ち着きました。
緘黙の人や後遺症を持った人でも生きやすい社会になってほしいとは思いますが、社会が変わるのを期待するよりも自分が変わる方が手っ取り早いです。
■ 本人が治したいと考えるから治すのだ
場面緘黙症を治すも治さないも、個人の自由だと私は思います。場面緘黙症や後遺症がある人は一人残らず治療を受けるべきだとは考えません。
場面緘黙症でも本人が不満を抱いていなければ、別に治さなくてもよいと思います。例えば、別に家でしか話せなくても、学校生活に不満はない。後遺症はあるけれども、不満はない。中には、場面緘黙やその後遺症で学業上、あるいは職業上に何らかの悪影響があっても「それでもいい」と考える人がいるかもしれません。
しかし、そういう人は実際は少ないのではないかと思います。場面緘黙のために学校生活に大きな不満がある。将来、社会でうまくやっていけるかどうか不安だ。だから治すのです。
■ 子どもには、物事を正しく判断する力は弱い
子どもの場合は、少し事情が違います(といっても、場面緘黙症の人はほとんどが子どもでしょうが)。
子どもには、物事を正しく判断する力は弱いです。例えば、「緘黙治さなくっていいじゃん!」と言う子どもが、大人になっても後遺症をひきずり、「あの時治しておけばよかった」と後悔しても、遅すぎます。
そこで、親が介入する必要が出てきます。親が嫌がる子どもに場面緘黙症の治療を強要しても、親のエゴの不当な押し付けとも必ずしも思いません。緘黙症の後遺症がある人や大人になっても引きずっている人には、不満を感じている人がほとんどですから、子どものうちに治しておくのが無難だと思います。
もちろん、「治したい」という子どもには、力になってあげたいものです。
■ むすび
世の中にはいろんな人がいてもいいはずなのに、どうして緘黙の人は社会に受け入れられないのだろうかと考えたことが何度もあります。
緘黙で社会に適応できない人がいるなら、緘黙の人を治すのではなくて、社会の方を変えるのが本来のあり方ではないかと考えたこともあります。情緒障害も、見方を変えれば個性です。
しかし、先ほどお話したとおり、社会が変わるのを期待するよりも緘黙の人を治す方が手っ取り早いでしょう。学校環境を変えるというのならまだしも、社会を変えるというのは大変そうです。
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[蛇足]
最近、「加藤いづみ」の名を久々に耳にし、嬉しくなりました(左の人です)。深夜ラジオが懐かしいです。といっても、私と同世代の人しか分からないかもしれませんが。私は演歌・歌謡曲が好きですが、加藤いづみも好きでした。アルバムのキャンペーンやってるそうなので、宣伝しておきます。
- [2007/01/30 13:19]
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コメント
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ご指摘ありがとうございます。
う・・・・・・・・ん
「お母さん かまわんといて! ほっといて! 私は このままでいい!」と 言いました。
最近は 「私 変わりたい! 話せるようになりたい! でも お母さんの わるだくみは いらん!」って 言います。
うちの場合 どちらにしても 私=母親は いらないようで・・・(笑)
確かに 日本の社会 変えて行くのは 大変だと思います。
でも 自分を変えるのも これまた 大変です。
努力している人間もいますが なかなか・・・(私自身のことです)
ところで 加藤いずみ・・・エ〜ン (涙) 知りません (*^_^*)
のひめさん、コメントありがとうございます。
緘黙なのに「今のままでいい」と言う子を見ると、心情としては「変わらないと駄目」と諭したくなりますし、「変わりたい」と訴える子を見ると、応援したくなります。できれば、子どもが自発的に「変わりたい」と言い出すようになればなあ…なんて考えてしまいますが、これは私のどこかに、緘黙をネガティブに考えている部分があるからでしょう。
子どもは親の言うことはなかなか聞きませんからね(私もそうでした…)。特に思春期ぐらいになると、親のお節介をわずらわしく感じるかもしれません。
>でも 自分を変えるのも これまた 大変です。
私もそう思います。「手っ取り早い」なんて記事に書きましたが、緘黙を治すのと、勉強して英語の論文を読めるようになるのと、どちらが難しいかというと、私の場合は前者でした。(>_<)
加藤い「づ」みで〜す!(間違えやすい)深夜遅くまで勉強していた15年ぐらい前に、加藤いづみのオールナイトニッポンを短い間ですが聴いていました。懐かしいです。
私は割りと低年齢で緘黙状態を脱しましたけど、後遺症というのでしょうか、人と話す事による体力、精神力の消耗がひどく激しくて、大勢の人と接しないといけない一日を過ごすと、それだけで体重が1〜2キロ落ちていたりするほどです。(3日もするとスッカリ戻りますが。(笑))
もしも、私が子供の頃、専門のカウンセリングを受ける機会があったのだとすれば、やっぱり受けたかったですね。もう少し違う人生になっていたかも、なんて。社会って厳しい。弱者に冷たいんですよね。日本の社会がもっと成熟するには、まだまだ時間がかかりそうですから、鉄は熱いうちに打て、の言葉のように、少しでも早期発見して治療に取り組む事が、今の日本社会で生きていく為にはベターな選択と言えるのでしょうね。
里さん、コメントありがとうございます。
体重が1〜2キロ落ちるとは、大勢の人と接するときは、本当に苦しい思いをなさっているんですね。
私も子供の頃にカウンセリングを受ければよかったと思うことがあります。当時の私はカウンセリングなるものを知らず、精神科や心療内科も気軽に通えるような場所ではとてもありませんでした(今でもそうかもしれませんが)。性格の問題だろうと間違って理解していたことも不運でした。
削除しました
加藤いづみは、ちょっとした事情で、当時の私のクラスメイトの間で抜群の知名度がありました。私がオールナイトニッポンを聴いていた時は、ユーミンがパーソナリティーやってました。
こんにちは!
コメントってドキドキします〜
ひとこと書いてみたくなりました
自分も社会も、たくさんの側面があり
様々なものの集合体ではないかと考えます
同じものも人によって
全く違うものになるような気がします
自分がこのようなものだと思うことで
その人にとってのそのものは
よりそうでしかありえなくなりやすい
自分に対しても社会に対しても
固定的に考えるのはどうかと思います
もしかしてピントずれてますか?
ルディさん、コメントありがとうございます。
私は大学で経済学を学んだのですが、その方法論というのは面白いです。人も社会も、ルディさんのおっしゃる通り、非常に複雑です。しかし、経済学ではその複雑なものを一般論としてモデル化しようとします。それは「還元主義」で、複雑なものの要素だけに注目する、言ってみれば単純化するわけです。例えば、たくさんの側面がある人間を、欲求を合理的に満たすという一面だけに注目するとか。もっとも、こうした方法論には近年批判も出て、複雑系経済学などの研究が生まれることになりました。
一般論として「だいたいこんなもの」として考えることは、大事だと思います。ですが、もっとたくさんの側面に目を向けることも、ルディさんのおっしゃる通り大事なのかもしれません。ピントのずれたコメントだとしたら、ごめんなさい…。
もしあなたのお子さんがこう言い出したら?
もしあなたのお子さんがこう言い出したら、どう答えます?
そう言ったとしても、言ってる子どもの心の中は、
いろんな考えがごちゃごちゃに渦巻いていて、
話せる魔法があるんなら、話せるようになればいいに決まってる!
これ以上どうしろって言うんだ?もう、ほっといて。
これ以上嫌な思いをするのはごめんだ!
いっそ、あきらめた方が楽!
って思ってるのでは?
「治さなくてはいけない、とか
喋べらないといけない のではないよ。
お母さんは、あなたがもっとリラックスできるよう、
人と交流しやすいよう いっしょに工夫していきたい」
って言ってあげたいです。
たとえ喋れなくっても、人とのつながりを実感していけば、子どもは「伝えたい」「喋りたい」気持ちがふくらむのではないかしら。
その子がたとえ大人になるまで喋れなかったとしても、つらさを分かってくれる親がいれば、子どもはひとりぼっちじゃないです。
日本では、そんな大変な状況におかれる親を支援するシステムもないのが現状なんですよね・・・。
与えられている条件
世界も自分もある不完全な条件で与えられて
はい、スタート!と言われてどうするか・・
私はグリム童話などの昔話は、とても奥深いものだと思っているのですが、皆さんもご存知の通り
たいていの主人公は、とても不幸な境遇、ヘンテコな状況に置かれているところから物語りは始まります
いったいどうやって、かけられている魔法を解くか?
もしかして、最後には宝と美しいお姫様を手に入れることができるかも?
ん?またピントずれたような・・
親を支援するシステム
いつでも、どんなときでも、揺るぎなくありつづけるために、私を理解してくれる伴走者がいれば!とどんなに願ったことでしょう。
でも気がつけばいつの間にか、それは児相に何度も通ううちにいつのまにか出来ていたり、担任の先生との何回ものやりとりの中で生まれてきました。
このサイトでも、とても支えられてきました。
私はこのサイトはそんな親を導いてくれるひとつの「場」だと思っています。
富重さん↑削除いつもすみません。
けいこさん、コメントありがとうございます。
>いろんな考えがごちゃごちゃに渦巻いていて、
なるほど、それはあるかもしれません。
けいこさんのコメントの後段は、ひきこもりの人への対応に似ていると思いました。ひきこもりの人にひきこもってもいいという安心感を与えつつ、人との交流を通じて就労への意欲が自然と高まることを期待する…ひきこもりを援助する人の中には、このような立場をとる人がいるようです。
何かベースとなっている理論でもあるのでしょうか?それとも、両者が似ているのは単なる偶然でしょうか?
ルディさん、コメントありがとうございます。
不完全な条件でスタートした場合、自助努力で条件を変えるか、与えられている条件を逆に生かすか、ゴールを不完全な条件でも達成できそうなものに変えるか、ゴールを諦めるか…こういったところでしょうかねー…。
不幸な境遇、ヘンテコな状況も、中には肯定的に見る人もいるかもしれません。先天性四肢切断という障害を持った乙武洋匡さんを「不幸な境遇」に生まれてきたと見る人もいるかもしれませんが、ご本人はいたって前向きのようです。お母様も、生まれてきた洋匡さんを見て「かわいい!」と言ったそうです。
またピント外れてたらごめんなさい。
ははさん、コメントありがとうございます。
このサイトが少しでもお役に立てたのだとしたら嬉しいです。ははさん、直接関係ないのに削除してしまってすみません。m(_ _)m
緘黙を治す方法
「何で学校で話さなくてはいけないの?」
と言う子も現在の状態に満足してるからそう言うわけではなくて
話さないことを責められたり問題のある子どもとして扱われるのが
いやだからそう言うのだと思います。
ホント魔法かなんかで何の努力もなしにポンと
明日から話せるようにしてくれると言うなら
そうしてもらうと思います。
それに緘黙を治すのって難しいですよね。
緘黙も人それぞれだからこうすれば必ず治る
と言う方法ってあるんでしょうか?
治った人というか大人になってましになった人は
多いけど自然治癒の人も結構多いし
僕の頭の中では緘黙を治す方法ってなんか
ぼんやりしています。
俊太さん、コメントありがとうございます。
私個人のことを言うと、話せなくても別にいいじゃないかと本気で考えたことがあるんですよ。
私は緘黙がなかなか治らなかったので、一生外でまともに話せないのではないかと思っていました。こうなると、緘黙を否定して治そうとするのではなく、個性として受け入れ、緘黙の自分をむしろ肯定しようという考えに落ち着きそうになったんです。学校で周囲の理解があったことも、とても大きかったです。
結局、就職を前にして、この考えは捨てたのですが。
富重さんへ
何かベースとなっている理論でもあるのでしょうか?それとも、両者が似ているのは単なる偶然でしょうか
え〜富重さん、これって理論なんでしょうか?当たり前と思うのですが。ひきこもりを援助する人の中に、他の考え方をする人って、いるんですか?
私が、仕事したいのにどうしてもうまくいかず、ひきこもってるとしたら、「〜すべき」と言われたら、いやです。体が固くなってよけいに動けなくなってしまいます。
でも「引きこもっていていい」と言われて放っておかれるだけでは、自分からは動けないです。
私の持ってる力が形になるように、援助してほしいです。
>緘黙を否定して治そうとするのではなく、個性として受け入れ、緘黙の自分をむしろ肯定しようという考えに落ち着きそうになったんです。
可能性は「肯定」と「否定」の間に、あるのではないかしら。
どちらかに固定すると、「可能性」が育ちにくいです。成長も治癒も回復も、その人が持っていて、でもまだ眠ってる力がひきだされることだから。
>自分がこのようなものだと思うことで
その人にとってのそのものは
よりそうでしかありえなくなりやすい
ルディさんが言ってらっしゃることと同じです。
(ルディさん、日本語が翻訳調デス・・・)
けいこさん、お答えありがとうございます。
確定申告の季節ですが、ニートやフリーターは扶養控除の対象から除外するという議論が以前政府税調にあり、話題になりました。ひきこもりも定義上ニートに含まれますが、この議論などは、ひきこもりは経済的な余裕があるから可能なのであって、安心してひきこもることができないような状況に追い込めば嫌でも社会に出るだろうという思惑があったのかもしれません。
こうした中、私がデイケアで会う心理カウンセラーは「安心してひきこもればいい」と言うので不思議に感じていました。何が当たり前なのか、私には分かりません。
>どちらかに固定すると、「可能性」が育ちにくいです。
私には、どちらかに固定するという考えはありません。こういう考え方も大事にしたい、という趣旨で書きました。分かりにくくてすみません…。
「安心してひきこもればいい」
不登校に対してもそんなやり方をよいとする精神科医や教師がいるし、民間団体もあります。
強引に引き出される嫌な思いをしたとして、その後その傷を十分上回るようなよい体験ができるのでしょうか。(できればいいのですが)その後の方が重要なように思います。
>けいこさんのコメントの後段は、ひきこもりの人への対応に似ていると思いました。
>こうした中、私がデイケアで会う心理カウンセラーは「安心してひきこもればいい」と言うので不思議に感じていました
富重さん〜 似てないですよ。
言葉って、誰が誰にどんな状況で言ったか、前後の文脈によっても意味が違ってきますが、
デイケアに行った先で「安心してひきこもればいい」なんて言われたら、???どういう意味か分からないし、私だったら腹立つかも。
「引きこもりたくて引きこもってる訳じゃない」
「そんなん言うなら、私とかわってくれへん?(関西弁なら)」
と言いたいです。
緘黙の子がステップアップしようとしている時に、
「安心して黙ってればいいよ」と間抜けなことを言うのと同じなのでは?
けいこさん、コメントありがとうございます。
書き方が悪かったようです。すみません…。要するに、ひきこもっている自分を責める必要はないのだ、とひきこもりを肯定するということです。「肯定」という言い方も紛らわしいですが。ひきこもりは悪くないけれども、ゆくゆくは社会に出て行ければいいね、というスタンスです。
デイケアなどで人と交流できるようになったら、就労、もっと広く言うと社会参加への意欲が自然と沸いてくると考える人もいます。しかし、本当にそうなのかなあ、根拠は何なんだろうと疑問に感じていました。
私のせいで、話が緘黙からずれてしまいました。
富重さんへ
「デイケアで人と交流→自然と社会参加の意欲」という理論はないと思いますが、「人との交流」を広い意味でとると、「人との交流」が「社会参加」のベースや練習になると考える理論は多いと思います。
けいこさん、コメントありがとうございます。
デイケアでの交流を、うまく社会参加に結び付けたいものです。
人嫌い
頭も進化していないので
鋭く見れば、その集団はおぞましく気味の悪いものかもしれません
それを鋭く察知してしまうと
簡単に溶け込んでいけないのももっともです
どうせならもっとひきこもりを正当化しませんか?
??ピントずれてますよね?
ルディさん、コメントありがとうございます。
ひきこもりの正当化というのは、本人にとってはなかなか難しいです。間違えると、社会に出なくたっていい、働かなくたっていい、ということにもなりかねません。
私は
それが今もとても役に立っています
子どもの不登校を人生経験として生かすにも
自分を責めるというより
社会や人間の不完全さを見つめる良い機会にしてみると
それに対する感受性を持っているため適応できなかった自分の価値は相対的に上がり、世間への対処への心構えともなり結果としてはいいような?
いかがでしょう?
もちろん色々なケースがあるとは思いますが
ルディさん、コメントありがとうございます。
私の場合、社会的に恵まれない境遇にあるときは、その原因を自分に求め、自分の問題点をどう修正すれば社会に適応できるかを考えます。その方がより現実的で解決が手っ取り早いと思うからです。
あるいは、自分は社会と折り合えないということを認めたうえで、それならそれなりの生き方を見つけるのも一つの方法だと思います。簡単なことではありませんが。
社会に問題があるとすれば、その研究は社会学者や経済学者におまかせします。自分の不遇の原因を社会や環境に求めるというのは、たとえそれが事実であったとしても、本人にとってはなかなか簡単ではない場合があります。
丁寧なお答え有難うございます!
話が難しい気もします
富重さんはたいへん節度のあるお答えをして下さっており、だからこそ緘黙症Jounalがこれだけ信頼されているのだと思います
社会とは言っても一人ひとりの意識から成り立っているのでは?とか、経済も人の気持ちが株価を上げ下げするのでは?とか、もう少し何か言いたい気もしますが・・
私も勉強不足ですので、このぐらいで自粛しておきます
こちらこそ、勉強になりました!
>経済も人の気持ちが株価を上げ下げするのでは?
伝統的な経済学は、感情に振り回されない合理的な人間「経済人」を仮定した方が、経済をうまく説明することができるという立場です。これに対する批判として生まれたのが、いま脚光を浴びている行動経済学です。経済学における感情の扱いについては議論が分かれているところだと思います。
経済学の世界には失業が存在しなかったりと、一般の人が考える経済の世界とはかなり違いがあります。
ルディさんのコメントは哲学的で、コメントの交換だけでも勉強になりました。またよろしければ、いつでも書き込んでくださいね。
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