自分がこうだから、みんなもこうだ

2010年02月24日(水曜日)

「自分は緘黙なんてすぐに治ったから、緘黙は心配しなくてもよい」

「うちの緘黙の子はスパルタ方式で治ったから、場面緘黙症にはスパルタ方式が有効」

「私は緘黙だった頃、演歌が好きだったから、緘黙児はみな演歌好きなはず」

自分がこうだったからといって、みんなもそうとは限りません。ですが、実際に緘黙を経験したり、緘黙の子と関わった経験があったりすると、中にはついこのように考えてしまう人がいるかもしれません。一人、もしくは少数の緘黙の子の例を下手によく知っているだけに、緘黙について知っている情報に偏りが出てしまい、その偏った情報を一般化してしまうのです。

場面緘黙症についての話の中には、もしかしたら、こうしたものもあるかもしれません。注意したいです。

私とて、このあたりのところを注意してはいるつもりですが、知らず知らずのうちに自分の個人的な例を一般化していないとも言い切れません。特に緘黙ストーリーなどこのサイトの文章を読むときには、その点注意したいです。

もちろん、個人的な経験であっても、それを数多く集めれば、何か共通するものが見えてくることもあるでしょう。また、共通するものとまではいかなくても、どういった緘黙の子がどの程度の割合でいるか、といったことも分かるでしょう。場面緘黙症に関する研究の中には、緘黙症児を数多く集めて、様々なことを調べたものもあります。

それにしても、場面緘黙症の子にも、色々な子がいるのではないかと感じています。