続・コミュニケーション偏重主義

2011年01月25日(火曜日)

私は「緘黙ストーリー」と題して、自分のかつての緘黙?体験を連載しています。緘黙ストーリーでも書いている通り、私の場合、場面緘黙症?だったと言っても、学校では必ずしもつらい思いばかりしていたわけではありません。こうした緘黙の経験者は、もしかすると珍しいかもしれません。

特に大きかったのは、たとえ極端に引っ込み思案で話をすることができなくても、クラスメイトは私のことを「頭がいい」「真面目」な生徒として評価してくれたことです(実際、そんなに頭は良くなく、真面目でもなかったのですが……)。よいクラスメイトに恵まれたと思います。もちろん、緘黙だと学業等にも影響が出てきますけれども、それでも、例えば勉強ができるとか芸術面で才能が発揮できるなど、何か得意分野があれば、学校に居場所を見つける可能性も少ないながらもあるのではないかと思えます。

児童心理 2011年 02月号 [雑誌]しかし、もしかしたらこのような考え方は牧歌的な時代のものではないかという思いも私の頭の片隅にあります。今月号(2011年2月号)の金子書房の雑誌『児童心理』、斉藤環氏(精神科医)による寄稿「群れる力と群れない力」によると、「コミュニケーション偏重主義」が、今の思春期あたりの子どもたちを強力に支配しており、「いまやコミュニケーション以外の才能は、ほぼ顧みられることがなくなった」(26ページ)のだそうです。特に、「的確に場の空気を読む能力」「笑いを取る能力」が子どもにとっては重要なのだそうです。これをどこまで信じればよいのか私には分かりませんが、もし斉藤氏の指摘が事実なら、たとえその子に何か長所があっても、子どもたちの間で評価されるようなコミュニケーション・スキルがない緘黙の子は、昔以上に学校で居場所を見つけるのは難しい時代です。

上記のような子どもたちの間での価値観は、大人から見れば狭い世界のものでしかないようにも思えますが、子どもにしてみれば重要なことに違いありません。もっと子ども同士がお互いを多面的に評価できるようになればと思うのですが。いずれにせよ、私の緘黙ストーリーは、少なくとも10数年は昔の(特に小学校時代の話となると、それ以上の相当昔です)あくまで一個人の体験であり、ここから現代の緘黙児支援について一般的な教訓のようなものを引き出そうとすれば、注意した方がよさそうです。

ところで、今月号の『児童心理』では、場面緘黙症についてわずかですが言及があります。斉藤氏の上記の寄稿のほか、編集後記、さらには来月号予告にも「緘黙」の文字が見えます。来月号の同誌には、角田圭子氏による緘黙についての記事が載るそうです。

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