[緘黙] 緘黙だっていいじゃないか、個性だ [ストーリー]

2011年05月03日(火曜日)

このブログでは、私の過去を連載形式で振り返っています。今回は高校生編の第15回です。通算第73話をお届けします。

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■ 緘黙は自分の個性か

高校2年生にもなると、私にも知識がついてきました。中途半端に頭が良くなっていった私は、次第にこうしたことを考えるようになりました。

「自分が話せないのは個性と考えればいいのではないか。無理にこれを変えようとしなくても良いのではないか。このままの自分だと将来が不安だが、ありのままの自分を認めればいいのではないか」

私はそれまで自分の極度にシャイなところが大嫌いだったため、これを否定して、変えようとばかり考えていました。しかし、私は学校生活では多くの人に評価され、好かれていました。それどころか、私のこういう性質を気に入ってくれる人さえいました(こういう経験をした緘黙の人、珍しいかもしれませんが)。

また、もし自分が内気ではなくなり、人とも自由に話せるようになった姿を想像すると、自分が自分でなくなってしまったように思え、漠然とした恐怖感を覚えました。荒木冨士夫氏は、『児童精神医学とその近接領域』に発表された論文「小児期に発症する緘黙症の精神病理学的考察」の中で、「緘黙identity」という表現を用いていましたが、私も長期間にわたる症状の固定化により、緘黙を自分のアイデンティティーにしていたのです。

そもそも、私は高校2年になっても、いまだにまともに人と話すのは簡単ではありませんでした。一時期に比べれば軽快していたとはいえ、軽快までの歩みは本当にゆっくりしたものというのが実感でした。こうした状態でしたから、自分の極端な無口は生涯にわたって変わらないように思えてなりませんでした。それならば、これを変えようとするのではなく、むしろ受け入れて、うまく付き合っていくことが大事ではないかと、発想の転換が必要と思われたのです。

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■ 緘黙の効用?

学校生活では、無口であるがゆえの効用のようなものがあると感じていました。無口でも悪いことばかりではないと感じていました。

◇ たまに話すと言葉に重み

これは私の緘黙が軽快していたからこその出来事です。ある日の放課後、私の隣の席の女子(チアリーディング部のすごい美人)が、学業成績が振るわないという理由で、担任のD先生に職員室で怒られてしまいました。落ち込んでいたところ、私は、頑張って一言励ましの言葉を送りました。すると、(美人の)彼女は喜んでくれて、翌日には「富条君が私を励ましてくれたんだよー!」と友達に自慢までしていました。

一緒にいたある人に言わせると、「普段静かな富条君の言葉だから、言葉に重みを感じた」とのこと。

◇ 黙って勉強ばかりしていると頭がいいと誤解される

また、私は勉強が好きだったもので、黙って勉強ばかりしていると、「この人は頭がいい」とよく誤解されました。

対照的に、緘黙が消えた現在の私は、あれこれ話しているうちにボロが出ることが多く、「頭がいい」とは社交辞令でも言われないようになってしまいました。

■ もし、緘黙のことを知っていたら……

ありのままの自分を受け入れる。無口でもよい。こう言えば聞こえがいいですが、見方を変えれば、緘黙を治すことを断念するということでもあります。こうして、この時期の私は緘黙のことはますます気にしなくなり、いよいよ受験勉強に没頭するようになりました。勉強のことさえ考えていればいい、ある意味私にとって幸せな時期でした。

ただし、私はこの時点では、場面緘黙症をまだ知りませんでした。もし緘黙のことを知っていて、緘黙は克服可能であるとか、そうした知識を持っていたら、もう少し違った考え方をしたかもしれません。

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