[続・緘黙] お世話になったS先生 [ストーリー]

2013年09月01日(日曜日)

アイキャッチ画像。日が落ちた草原と一本の木(美瑛)。
このブログでは、私の来し方を振り返り、連載形式で書き続けています。

大学生編は、今回(第15回)で最終回です。通算第97話をお届けします。今回の話は、緘黙とはあまり関係ありません。

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■ S先生との関係が悪くなる

S先生は、私の大学のゼミの指導教官でした。振り返ってみると、私がS先生に初めて関心をもったのは大学1年生の時です。初めて直接お会いしたのは2年生の前期で、引っ込み思案だった私がどうしてもS先生にお会いしようと、講義後に個人的に研究室にお邪魔したのが最初でした。2年後期以降は、大学卒業までS先生のゼミに所属し、また、S先生が開講されていた講義は全て聴講しました。S先生からは、経済学の学習や進路指導にとどまらず、全人的な教育を受けました。大変お世話になった先生でした。

ですが、ある時期から、S先生との関係がギクシャクし出しました。進路指導や、私の資格取得についてなどで、私との間で意見の食い違いが目立つようになったのです。

この原因の一つは、S先生の教育スタイルが私と相性が悪かったことがあるかもしれません。S先生はご年配の先生で、「とにかく私の言うことをききなさい。そのうち私が言ったことの意味が分かるようになる」というスタイルの方でした。ですが、私はなぜS先生がおっしゃったようにする必要があるのか、その根拠を知らなければ納得がいかないタイプでした。こんな私でも、かつては異常なまでに教師に従順で、先生の言うことならばなんでもかんでもきいていたのですが、大学生の頃になると我が出てきたのでしょうか。偶然か必然か分からないのですが、自分の緘黙症状?がよくなればなるほど、この極端な従順さが和らいでいったのでした。

もう一つの原因は、私の寡黙さにあっただろうと思います。自分のことをろくに話さない(話せない)ので、誤解を受けやすかったのです。ほとんど会話をしない私を、やる気がないものとみなされたこともあります。

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■ 談笑の中で

大学3年から4年にかけての時期は、就職活動も忙しくなってきます。私たちゼミ生は、ときどきS先生の研究室にお邪魔して、進路や学業について助言をいただいていました。ですが、こうした場では、ときどき話が脱線してしまいます。S先生はこんな話もされていました。

「大学から自宅に帰るのに、一時は歩いていたが、最近車で送ってもらうようになったんだ。途中で通り魔に刺されたりしてはたまらんからな」

「自分が死んでも、新聞のお悔やみ欄には載せないんだ」

単なる談笑の類です。私もみなに交じってアハハと笑いながら(緘黙気味で思うように笑えませんでしたが)楽しく話を聞いていました。同じゼミ生である関西弁の学生は、「先生、最近『死』に関する話が多いですね」と指摘していました。

■ 卒論指導

4年に入って、いよいよゼミで卒業論文の指導が行われることになりました。ゼミ生はみな、卒論を書きながら適宜S先生に内容をチェックしてもらうという方法をとっていました。ですが、ひねくれ者の私はそういうかたちをとらずに、まずは自分で一通り書いて、後でまとめてS先生に見てもらいたいと申し出ました。S先生は理解してくださいました。

そうして各自卒論を書き続けていたところ、ある日のゼミで、S先生が休まれてしまいました。S先生は大変教育熱心で、雨が降ろうが槍が降ろうが何が何でも授業をするような先生だっただけに、不思議なものだと思ったものです。S先生は次回以降のゼミも休まれてしまい、ついには入院されてしまいました。思ったよりお身体の具合がよくなかったようです。

ゼミ生みなでS先生のお見舞いに行くことにしました。病院内で待っていたところ、S先生は点滴をしながら私たちのところに来てくださいました。私たちが買ったお見舞いの花を受け取ったS先生は、一言二言私たちに話をしてくださいました。このときS先生は、他のゼミ生には大体目を合わせて話しかけていたのに、私には目を合わせようとされずに、少し寂しい思いをしました。

結局S先生は退院されないまま、私たちは卒業式の日を迎えることになりました。例の関西弁の学生が、「完成した卒論をS先生に見てもらいたい。郵送したい」と言っていたので、私もそれにならい卒論を郵送することにしました。S先生は卒論指導が始まって間もない頃に入院されたため、それ以降は私たちゼミ生は誰からも指導を受けることなく卒論を書きあげ、完成させた卒論もS先生には読んでいただいていなかったのです。特に私に限っては、お話ししたように後でまとめてS先生に見てもらいたいなどと申し出てていたため、卒論の下書きすら全くS先生に見ていただかないままでした。

■ その後

大学を卒業して1~2か月後のことです。ゼミで一緒だった関西弁の学生から電話がかかってきました。かつてのゼミ生から連絡をもらったのは大学時代も含めて初めてのことです。唐突に何だろうと思い、受話器をとると、彼はこう話しました。

「S先生が亡くなったんよ……」

私は喪服に着替え、葬儀に出席しました。式場では、たくさんの菊の花の中心に、笑顔のS先生の写真が掲げられていました。信じられない思いで、全く実感が沸きませんでした。

学部長は弔辞の中で、慟哭しながら、ここ数年著書を次々に出版するなど、これまでの研究成果を急にまとめようとされていたS先生に「どうしてそんなに急いでいらっしゃるんですか」と尋ねたことがあるという話を紹介されていました。葬儀の席で、私の隣の席にいた関西弁の学生は、「S先生がいなくなって、僕、これからどうやって生きていけばいいんやろう」と言いながら涙を流していました。

遺族の方が最後に、「父は病の中、ゼミ生の卒業論文の指導ができなかったことを、最期まで悔やんでいました」と話しながら、こらえていたものを抑えきれずにいました。

式後、私たちはS先生の棺とともに火葬場に向かい、S先生とお別れをしました。S先生とは色々ありましたが、根底において私はS先生のことを尊敬し、慕っていました。こういうかたちでお別れをすることになるとは、残念でなりません。



大学生編は、これで終わりです。最後まで読んでくださりありがとうございました。次回からはいよいよ最終章です!

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