明治時代に、日本で緘黙児の報告か・続報

2014年03月29日(土曜日)

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2月27日に公開した記事「明治時代に日本で緘黙児の報告か」の続きです。今回は、問題の報告が掲載された明治37年の『信濃教育』を読んだ感想などを書いています。

前回のおさらい


1904年(明治37年)に、「教場唖」という場面緘黙症らしき児童の報告があったことを知りました。2013年に発表された『上越教育大学特別支援教育実践研究センター紀要』の論文によると、北澤大吉という人が雑誌『信濃教育』に発表した「惡癖兒童矯正實驗談」に「現在の緘黙症の中でも場面緘黙に近いものと考えられる」児童の報告があるというのです。

↓ 上越教育大学リポジトリへのリンクです。PDFファイル(787KB)。なお、PDFを閲覧するには Acrobat Readerが必要です。Acrobat Readerはこちら(新しいウィンドウで開く)からダウンロードできます。

◇ 中嶋忍、河合康(2013)「明治時代の雑誌『信濃教育』における特別教育の対象児童に関する研究論文の概要」『上越教育大学特別支援教育実践研究センター紀要』(19)、7-11。
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※ 上の論文の9ページ「『悪癖』児童に関する研究」という箇所をご覧ください(9ページの、主にページの右半分です)。

もしこの児童が本当に今でいう緘黙児だったとしたら、こんなに古い日本での緘黙児の報告は私は聞いたことがありません。そこで私は上の紀要論文をもとに「明治時代に日本で緘黙の報告か」という記事を先月書きました。

ですが、私は『信濃教育』を直接読んでおらず、上記紀要論文の引用を通じてその内容を知り得たに過ぎません。言わば、又聞きのようなかたちで知ったに過ぎなかったわけです。そこで、今回は原文にあたってみました。

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原文にあたってみました



原文はこれです。

◇ 北澤大吉(1904)「悪癖児童矯弊実験談」『信濃教育』216、20-27。

「敎場啞ニ就テ

壟ニアラズ啞ニアラズ思想ヲ有シ言語ヲ有スル生徒ニ?學校敎室ニ於テ一語ヲモ發シ得ザリシ敎場ノ啞アリ敎場ノミノ啞デ敎室外ノ啞ニテハナカリキサレド此兒童ノ物ヲ言ハヌノニハ閉口ナリ……」

と始まる論考で、なるほど、ここで言う教場唖は今日で言う場面緘黙症のことかもしれないと思わせます。なお、? の箇所は「メ」や「ソ」に似た字なのですが判別できませんでした。

原文と上越教育大紀要論文の比較


2013年の上越教育大学紀要論文の教場唖に関する記述は、北澤の論考を要約したもので、その内容に間違いはありません。原文では、教場唖の児童が話し、尋常小学校を卒業するようになるまでの過程が丁寧に書かれているのですが、この過程の部分が上記紀要論文ではかなり省かれています。

紀要論文の要約で省かれた情報のうち、論考の基本情報について少しお話しします。著者の北澤大吉は北安曇郡在住の尋常小学校教師で、教師として、ある教場唖の児童を指導した経験をまとめたものが上記『信濃教育』の論考です。当時の尋常小学校は4学年までだったのですが、落第の制度があり、教場唖の児童は学業不振もあって卒業までに2度落第しています。この児童は北澤が支援を始めるまで2年あまり学校で話さない状態が続いていたのですが、その後、話せるようになっています。

気になった点、感想など


まず、教場唖という言葉ですが、これは北澤の造語なのか、当時教育関係者や医療関係者などの間で広く知られていた専門用語なのか、このことが気になっていました。後者なら、1904年(明治37年)当時に、今で言う場面緘黙症が既に関係者の間で認知されていたことになります。ですが、原文を読んでもはっきり分かりませんでした。

問題の教場唖の児童については、「耻しい、怖るヽ、きまりがわるい」といった記述があり、不安が強い子だったことが窺えます。やはり緘黙かと思わせます。

また、問題の児童は、文字数や学科の進む割合に能力記憶が発達進歩せず、北澤は学校で話せない原因の一つをここに求めていたのですが、知的障害か何かがあったのかどうかが気になりました。今日で言うところの純粋な緘黙ではなかったのではないかと。ですが、この児童は話せるようになると学業もかなり進歩したとありますし、よく分かりません。むしろ因果関係が逆で、緘黙が学業の進歩を妨げていたとも考えられます(実際、「音聲ヲ要セズシテ成シ得ル學科ハ幾分出來シヲ以テ」という記述もあります)。

それから、この児童は「敎場ノミノ啞デ敎室外ノ啞ニテハナカリキ」とのことで、家では話していたと思われる記述があるのですが、その一方で、「家庭ニテモ注意シ讀書ヲ敎ヘナドシマシタガ學校ニテハ更ニ讀マヌ」という記述もあり、家庭でも学校ほどではないものの話せなかったと解釈できないこともありません。このあたりも、よく分かりません。

学校で話せない児童というと、発話の問題に注意が向きがちになります。北澤の場合、問題の児童について、読書ができない問題、学業の問題、進級や卒業後の問題に特に注意を向けていたようです。

私は北澤の論考を読み、尋常小学校に落第があったことを初めて知ったのですが、当時も他に緘黙児がいたとしたら、順調に進級ができたのだろうかと思います。余談ですが、1890年(明治23年)に、やはり長野県の松本尋常小学校で「落第生学級」が設けられたのですが、これが特別支援学級の始まりとも聞きます。

それにしても、北澤の根気強い努力には頭が下がります。北澤は「教育學心理學生理學等碌に學ビシコトナク」云々と、この分野については専門的に学んだことはありませんでした。おそらくは独自で手探りしながら支援を行ったのだろうと思います。その結果か、半年、一年と、徐々に教場唖の児童を話せるようにし、卒業までもっていっています。

結局、「教場唖」が今日で言う場面緘黙症なのか、特に選択性緘黙の診断基準に当てはまるのか、についてははっきり分からなかったのですが、少なくとも場面緘黙症に似ているとは思いました。