緘黙になったのには、意味がある?

2014年05月23日(金曜日)

アイキャッチ画像。素材サイトPAKUTASOより。
「今の自分が困難な状況にあるのは、天が与えた試練」

「自分が生き残ったのには、何か意味があるに違いない」

昔からよく聞く言葉です。「天が与えた試練」については、古くは『孟子』に「天の将に大任を是の人に降ろさんとするや、必ず先ずその心志を苦しめ」云々という、似た意味の一節があるほどです。

私は、自分の経験にこうした人生の意味を見い出そうとは、あまりしないタイプです。実際、困難な状況を経験したり、九死に一生を得るような経験をしたりこともありますが、それを自分の生きる意味と結びつけることはありませんでした。それとこれとは別と、分けて考えてしまいます。

私が緘黙を経験したのは、緘黙支援のために何かしろという意味?


とはいえ、「自分が場面緘黙症?を経験したのは、緘黙児・者支援のために何かしろという意味だろうか」と考えたことは、ないことはありません。

緘黙を経験する人は稀です。あまり知られておらず、周囲の無理解に悩まされたと訴える経験者は少なくありません。そんな緘黙を私は経験?したのです。これは、自分が緘黙支援のために人生の一部を捧げよという意味かもしれないと考えたくも、時にはなりました(もっとも、私ができることなぞ限られてますが……)。

私がこのサイトを立ち上げたり、5月は場面緘黙症啓発月間と訴えたりしているのも、それが一つの理由かもしれません。ただ、どちらかと言えば、もっと他の理由によるものではあります。自分が学校で話せなかった経験と生きる意味とは別の問題で、緘黙?になったことに特に意味はないと考えることの方が、やはり多いです。